大谷翔平の軌跡 ②
前回の記事みていただけたでしょうか
これから読むのはプロ野球編になります
まだ読んでないかたは大谷翔平の奇跡①を読んでみてください
baseballranking.hatenadiary.jp
日本の宝プロ野球界へ
当初メジャーリーグを夢見ていた大谷翔平選手は、日本ハムファイターズへと入団します
そして2013年3月29日の開幕戦では(西武ライオンズ)では8番右翼手としてスタメン出場し2安打1打点と結果を残します
ちなみに高卒新人で複数安打するのは53年ぶりでした
野手として非凡な才能を見せる中、投手としては二軍での調整をしていました
そして同年5月23日には投手としてデビューします
1回は全て直球でプロに対して勝負をし無失点に抑えます
その試合は5回2失点で勝敗はつきませんでしたが、新人投手の初登板では史上初の157kmを投げます
その後もコンスタントに野手と投手で試合に出続けシーズンは終了します
投手として13試合登板し、3勝無敗 防御率4.23
打者としては77試合に出場し打率.238 3本塁打 20打点でした
この数字は松井秀喜とダルビッシュ有のデビューの記録と類似していました。
松秀秀樹 57試合 打率.223 本塁打11 打点27
因みにこの年は則本昂大や藤浪晋太郎、小川泰弘や東浜巨などここでは書けないほど豊作の時期でした。
伝説を残し続ける
2年目は投打で前年を超える成績を残しシーズン最速162kmを4試合連続で記録します
こちらは2008年の由規選手とクルーン選手の記録に並ぶプロ野球最速でした
この年は11勝 防御率2.61
野手として打率.274 本塁打10本 打点31と類稀なる才能をみせ記録と記憶にのこる成績でした
この同一シーズンでの二桁勝利と二桁本塁打は野球の神様ことベーブルースがメジャーリーグで残した記録のちょうど100年ぶりの出来事でした
プロ3年目には野手としては成績を落とすが、投手としては球団ではダルビッシュ有以来の最多勝、最優秀防御率、最高勝率の三冠をとります
シーズンオフにはcsで6イニングを3失点と試合を作り田中将大の記録を抜くcs最年少を更新しました
この年にはプレミア12で侍ジャパンにも選ばれ試合には負けましたが2試合の韓国戦では13イニングを投げ3安打の無失点に抑え世界にインパクトを残します
自身初の優勝
プロ4年目の2016年には開幕投手を務めるが打線の援護がなく、開幕6戦目まで勝利がつきませんでした
一方打撃は好調で4試合連続ホームランを放ったりとインパクトを残します
投手としてもその後は復調し自身の記録を更新する163kmを記録しました
その後はパリーグ初となるDHを解除し1番投手としてソフトバンク戦では初球先頭打者ホームランを放ちました。投手としても8回無失点を記録し、1人で打って投げる野球を体現します
(その日速報を見ていましたがプレイボールとともにホームランが出た衝撃は忘れられません)
シーズン途中右手のマメの影響で2ヶ月投げられなかった時期もあったが、その間も打者として出場をしました
この年は栗山采配が的中し守護神増井の先発転向や高梨、岡、有原といった活躍もあり最大11・5ゲームあった首位ソフトバンクを追随します
シーズン終盤は投手としても復活し9月13日のオリックス戦では糸井嘉男にたいして164kmを記録します
そして9月28日の西武戦で完封勝利しチームを悲願の優勝へ導きます
この年は大谷翔平が優勝させたと言わんばかりの活躍でした(しかしながらこの年のファイターズはみんな栗山監督に答え活躍しまくった)
クライマックスシリーズも第5戦のソフトバンク戦には9回にDH解除し登板し自身最高・プロ野球最速をまたまた更新する165kmを記録し日本シリーズ進出を決めました
そして日本シリーズではセリーグを優勝した広島カープをくだし、完全優勝を達成します
投手成績10勝をあげ防御率は1.86でした(3イニング規定回数足りなかったが防御率は1位だった)
野手成績も打率.322 本塁打22本 打点67の成績でした
そしてパリーグのベストナインが発表され史上初の投手とDHのダブル受賞をはたしました
本来野手と投手のW受賞は禁止されていましたが、規定を変更をするほど野球界を変えた一年でした
プロ最終年になる2017年はシーズンオフのWBCも欠場し開幕も故障に泣き、出場試合は激減しました
しかし最終登板戦では4番投手として出場し4打数1安打 10奪三振の完封勝利を挙げ、記録にも記憶にものこる選手でした
投手として3勝 防御率3.20
野手として打率.332 本塁打8本 31打点
シーズンオフにはポスティングを利用し、メジャー球団と交渉します
全球団が大谷獲得を目指す中、最終的にはロサンゼルス・エンゼルスへと移籍を決めます
いかがでしたか
次の記事ではメジャー編を記載する予定です
本当に簡潔にまとめているので少しでも気になったかたは、YouTube等で大谷選手の活躍みてみてください
それでは^
大谷翔平の軌跡 ①
初めまして
当記事はファイターズファンの筆者が今からプロ野球を好きになる方へ簡潔に選手の紹介を致します
まず初めは日本の宝球界に歴史を残し続ける大谷翔平選手の紹介です
なんと言ってもプロ野球が詳しくない人でも知っているのではないでしょうか
基本紹介
生年月日 1994年7月5日
身長 193cm
体重 95.3kg
ポジション 投手兼外野手
小学・中学時代
社会人野球の選手だった父とバドミントン選手の母を持つ、三人兄弟の末っ子として生まれます
そして水沢リトルリーグにて野球を小学3年生の頃から始め、すでに110kmを小学5年生にして投げています
中学時代にも水沢南中学校時代はリトルシニアに所属し、ここでも全国大会にも出場しています
花巻東高校時代
当時6球団から1位指名を受け埼玉西武ライオンズへ入団した菊池雄星に憧れ、花巻東高校へ進学を決める
1年春時は体の成長を重視し野手にし、1年生ながら春には4番・右翼手で公式戦に出場
1年秋からはエースとして最速147kmを投げ2年時には最速151kmを投げ甲子園に導きます。
3年生時春は選抜高等学校野球大会ではこの年春夏連覇する、藤浪晋太郎(現阪神)森友哉(現西武)擁する大阪桐蔭高校と初戦にあたるが9失点と大敗
しかしこの試合大谷翔平は藤浪晋太郎から特大のホームランを打っています
因みにこの2人は世代を代表する選手へ成長します
そして三年夏は準決勝にて160kmを投げアマチュア野球史上初を記録します
ちなみにこの記録はプロ野球でも160kmを投げる選手は歴代でも数人程度でした
活躍の場はプロ野球かメジャーリーグどちらへ
当時将来性の伸び代がある大谷翔平と春夏連覇した完成形とされた藤浪晋太郎にてドラフトが割れることが予想されていた
しかし大谷選手は夢であるメジャー挑戦を表明しました
世間は当時通用しないと言った意見など否定的な意見が多かったですね
アメリカへ行くことが規定路線の中、ここで手をあげたのが我が日本ハムファイターズ
指名挨拶のため日本ハムから訪問を受けた際にも面会もしませんでした
しかしその後、『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料が提示され、高校卒業後直接アメリカへ渡った韓国の野球選手がメジャーリーグで活躍しているケースが少ない点や、過酷なマイナーリーグの現状、母国のプロリーグで実力をつけた選手の方がメジャーリーグで活躍できる確率が高い点などが説明されました
更に前年までダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プラン等を提示され、12月9日に日本ハム入団を表明しました
12月25日に契約金1億円+出来高払い5000万円、年俸1500万円(推定)で仮契約を結んで入団会見した。背番号は上記の通り前年までダルビッシュが着用していた「11」に決まりました
評論家からは二刀流に対して否定的な言葉が多数あり世間は大谷論争となります
この当時野手に専念すれば松井秀喜級
投手だとダルビッシュ級といわれておりどちらもプロ野球界の最高峰の選手と比べられました
投打で一流の才能を認める中、前例のない二刀流はどっちつかずになると解説者や世論からの意見が多数ありました
大谷翔平選手はプレーにて二刀流論争を黙らせていきます
それでは続きは次の記事にて。